70年前のエコな生活!

生態系の変化ボヤキ

 白内障の手術(右眼7/13、左眼7/20)をしたので、お百姓仕事がしばらくできないので、子供の頃のエコな生活を思い出しながら書いてみます。

episode 1 生ごみ

 ゴミの回収車は来ませんでしたし、生ごみという概念がありませんでした。人間の食べ残しはすべて家畜に行くようになっており、豚、山羊、羊、ニワトリに分配されていました。
今、生ごみは膨大なエネルギーをかけて収集そして焼却。(地球も暑くなるかも?)

私は生ごみを柿の木や梅の木の下の草むらに放り投げています。あっという間に分解者(微生物)が仕事をして土に帰ります。そして木の肥料となります。

ep 2 家畜の思い出

ニワトリ編

ニワトリは雄鶏1羽と雌鶏10羽くらいが、放し飼いでした。子供で小さかったのでよく雄鶏に襲われました。

①ある日、殺虫剤で弱った虫をニワトリが食べていたのを見ていました。数日後に卵を食べたら殺虫剤のニオイがして食べられませんでした。毒は食物連鎖の上位まで影響するという『子供時のキョーレツな思い出』です。
②時々、祖父がニワトリを潰してきれいに捌いていました。ニワトリの腹を開くと小さな卵、中くらいな卵と順番に並んでいました。子供の頃、いつも不思議だなとジッと見ていました。生活の中に命頂きますが実感としてありました。

羊編
 丸々と毛で覆われた羊を祖父が刈り取ります。急に裸のヤセポッチの羊に変身です。この羊の毛を毛糸に加工して貰い、母が染色し子供達のセーターを編んでくれました。子供の成長に合わせ、毛糸をほどき編みなおし、マルチカラーのセーターを着せられました。今頃は手編みのセーターは趣味品ですが、昔は必需品でした。

ep 3 井戸水 

 ①飲み水
まだ、水道はありませんでしたので井戸水でした。信濃川の流域ですので水質はあまりよくなく濾過する必要がありました。ろ過装置の順番はわすれましたが、砂利、砂、炭、棕櫚の皮が使われていました。たぶん、層の境目に棕櫚の皮で仕切っていたように思います。

棕櫚の皮はカナケ(鉄分)抜きに効果があり、日本の各地の井戸水のろ過に使われていたようです。

②ガス井戸
地下水と一緒に天然ガスが出ていました。越後平野の湿地帯は天然ガスが豊富でした。井戸を掘るときは『上総掘り』という工法でやっていました。夏は地下水でスイカ、トマトなどを冷やす冷蔵庫代わりでした。冬はガスストーブが使えました。

ep 4 竈と風呂

 生活の中で水と同様に火(薪)を扱うことがとても重要でした。子供も火を使うことが多く、必然火遊びでボヤ騒ぎも多かったように思います。

台所には3連の竈があり、煮炊きはそこでやっていました。大体 一つの竈にはいつも火がついており大きな釜にお湯がグラグラ煮立っていました。他の竈に火を移すときは『付木(つけぎ)』という先端に硫黄の塗ってある木場を使いました。マッチが高価な時代でした。

お風呂の水汲みと薪で風呂のお湯を沸かすのは子供の仕事でした。子供達の間で、俺は薪3本で風呂を沸かしたと自慢し合っていました。ですから梅の木が火力が強いとかは身体で覚えていました。

ep 5 肥え桶担ぎ

子供頃、畑のあちこちに肥溜めがあり、そこで人糞の発酵させ畑の肥料としていました。アミノ酸に分解され野菜の吸収もよく青々とした葉っぱが茂っていたように記憶しています。
中学生の時、家庭科の授業で学校の便所から肥え桶を担いで実習畑へ運ぶ作業がありました。今では考えられない授業でした。

その後、このエコ循環システムは見捨てられ、化石燃料と鉱物資源から作られる化成肥料となり、ほぼ全量輸入に頼っている状況と思います。

エコな生活

 僅か70年前は自給自足に近いエコな生活を送っており、エネルギーはほとんど薪でした。それがあっという間に石油に代わり、生活も一変し便利になりました。その代償として暑い夏と荒い気象の洗礼を受けているように思います。
また、日本は70年間、森林を手つかずの状態にしたままですので森林利用の政策や技術開発が進むことを願っています。

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